
誰でも知れる「情報」は「考える」ことで、初めて知識として役立つ
日にちが変わる前に、本当のことを言っちゃおう。
経営の神様、ドラッカーさんの言うとおりなんだ。
これらから得られる情報には全く価値がない。
- AI
- ネット検索
- セミナー、研修
- 異業種交流会
- 日常会話
誰にでも得られる情報には、まったく価値がない。だって、誰もが知ることができ、誰もが知っていたら価値がないでしょう。知った情報は「考える」ことで、はじめて価値になる。
はじめて「考える」という方法が分かりました……
先週末にあるセミナーを担当。
「はじめて『考える』ということが知った」と参加者様たちからの感想をいただいた。
多くの人がそうなんだ。その一人であったことは間違いない。
「考える」という言葉は知っていても、「考える」やり方を知らない。
真実は「考えるやり方を知らないということにすら、気づいていない」
誰もが考えていると思っている。
しかし現実は、「悩む」ことを「考える」と誤解しているのがほとんど。
だから、情報を鵜呑みにしないで、「考える」人たちは、人生を歩むのが速い。
誰にでも知られる情報、どこに価値があるというのか
もし、それを一所懸命に追いかけているとすれば、価値の無いものを追いかけているという、自己に価値のないことを証明しているようなものではないか。
それでは本末転倒だ。
それにいつか気づく日がやってくればいいが……
大きな声では言えない。
そうだったなんて言えない。
「ちゃんと考えろ!」と。よく怒鳴られたものだ。
でも、考えているつもり。しかし、まったく考えてなどいなかった。
たとえば、試練やストレス。
一般の者は避けたいと思う。もちろん、そういうふうに考えていた。
だけれど、試練やストレスが、私たちを成長させてくれた側面が多いのではないか。
もしかしたら、それらがなかったら、喜びや感謝に欠けた日常だったのではないだろうか。
- 共に働く仲間とのすれ違いからの調和
- 誤解が説けたときのスッキリした充足感
- 目標を達成した時の自己肯定感
試練やストレスを真摯に向き合うことで、人生を深めてきたのではないだろうか。
本当のこと。
それを常識という。
一般に信じられていること、
「ストレスは避けたい」「試練ばかりで辛い」といったものが社会通念だ。
正しいようで正しくないことだ。
社会通念と似ているのが常識。
常識と社会通念は、似て非なるもの。
常識は、間違っているようで、絶対的普遍だ。
試練やストレスは、私たちを成長させてくれるではないか。
誰でも知れる情報は、考えて知識になったとき価値を持つ。
それを常識という。
取得した情報は、それだけで絶対に普遍とはなり得ない。
試練やストレスが誰かに役立ちその人を成長させたとしても、自分で経験しなければ、絵に描いた餅に過ぎない。
「考える」とはそういうことだ。