「未来を変えたい……」
「自分を変えたい……」
「人間関係に疲れた……」
「過去を整理したい……」
そんな思いに駆られたとき、彼の言葉が救いになるかもしれない。
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」――これは、カナダの精神科医エリック・バーンの有名な言葉。
しかし、現実はまったく違うのではないか。 もし未来が「変えられる」のだとしたら、それは「未来がすでに決まっている」という前提に立つことになる。そんな馬鹿なことが、あり得るはずがない。
私たちは独り言を発することもできれば、沈黙を守ることもできる。今、座っているとしたら、座り続けることも選べるし、歩きはじめることもできるだろう。 それさえもすべて「未来として決まっていたこと」なのだと言われれば、もはや反論のしようはない。しかし、もしそうだとすれば、「決まっている未来を変える」という行為さえも、最初から運命として決まっていたことになってしまう。
未来を変えることさえ、すでに未来として決まっていたのだとしたら、やはり、未来を変えることなどできないのではないか。
自分は変えられるのか
さて、エリック・バーンは「交流分析(Transactional Analysis, TA)」を創始した偉大な精神科医であり、凡夫の私が容易に太刀打ちできる存在ではない。 ただ、現実として言えるのは、未来とは「変える」ものではなく、自ら「創造する」ものだということだ。未来は、自分の思い通りに描くことができる。
そうして未来が「変えられるもの」ではないと気づいたとき、次に疑いたくなるのが「自分は変えられる」という言説だ。果たして、自分を変えることなどできるのだろうか。
近代的自我の考え方では、「私は私」「私は私のままでいい」という。では、その「私」を思っているのは、一体誰なのか。 そう問いかけても、結局「私」という言葉しか返ってこない。しかし、「私」が何かの代名詞である以上、それは何かを代名しているにすぎない。「私は私である」という主張は、代名するものが代名するものだと言っているだけで、その対象を明確に指し示してはいないのだ。
では、私は何を代名しているのか。
代名されるいろいろな私
昨日、家族で町中華へ出かけたときのことだ。隣の席に、三人組の女性たちがいた。
「旦那と喧嘩したら、言いたいことは全部言っちゃうの。でも大人だから、次の日は私から声をかけるわ」、すると別の一人が、「うちはね、喧嘩すると数日は口をきかないの。年を取ると、女のほうが強いからね」と応じる。賑やかな会話が弾んでいた。
彼女たちの語る「私」の正体は、いわば「愚痴」である。居心地は良さそうだったが、この「私」は変えられるものなのだろうか。
同じような光景は、仕事の愚痴が飛び交う居酒屋でも見かけられる。職場でストレスを感じながらも従順に振る舞う「私」がいる一方で、居酒屋では自由奔放に毒を吐く「私」もいる。 果たして、私は「従順な方」なのか。それとも「愚痴をこぼす方」なのか。
あるいは、仕事でお客様から感謝された場面を想像してほしい。ある人は、それを素直な喜びとして受け取る。 ある人は、当たり前のことをしたまでだと淡々と受け取る。 またある人は、嫌味ではないかと勘繰るかもしれない。では、「私」とは人格や性格のことなのだろうか。「私は私」の「私」とは、人格・性格という名の代名詞なのだろうか。そしてそれは、変えられるものなのだろうか。
「素直さ」にも「当たり前だと思うこと」にも「嫌味と受け取ること」にも、それぞれに二面性がある。 もし、この三つの受け取り方を、同じ人間が別の場面でそれぞれ経験しているのだとしたら、もはや「人格」や「性格」とは何を指して呼んでいるのだろうか。
どれを「自分」と指すのかさえ定まらないまま、どうやって「自分を変える」ことなどできるのだろう。 改めて考えてみると、「私は私のままでいい」という言葉も怪しくなってくる。怒り狂っている時の私も、そのままでいいはずがない。
夫や仕事の愚痴を言う私は、私でいいのか。だとしたら、私は「愚痴」そのものなのか。それとも「性格」なのか。あるいは場面によって姿を変える「柔軟性」のことなのか。
私とは、一体何なのだろう。 「変えられる未来」と「変えられる私」とは、一体何を指して言っているのだろうか。
そして、今これを考えているのは、本当に「私」なのだろうか。(笑)

