心の底からの声が、静かに響く。
「今年も頑張ります」
うつくしい。
輝いている。
求められている。
こんな社員は、幸せだろう。
そして、彼らを育てた経営チームも、また幸せだ。
なるほど。お客様にも、それが届く。
社員が幸せであれば、お客様に幸せを届けやすいだろう。
毎年、新年会に招待される。光栄なことだ。
そのたびに、懸命に働いてきた者たちの声を聞かせてもらう。新しい年への抱負に触れ、心が清々しくなる。
ああ、なんとも贅沢な時間である。
そして同時に、わが社もまた、仕事を通して、お客様や社員とともに、幸せであり続けたいと、あらためて思う。
我を取った
かつて、稲盛和夫さんのフィロソフィーにならい、
「全社員の物心両面を幸せにする」
それを理想として掲げていた。
それは、それで正しいのだろう。ただ、私の場合、少し肩に力が入りすぎていた。彼らの物心両面を幸せにできるのは、私個人という、勘違いした小さな存在ではない。彼ら自身だ。
彼らが自ら努力し、自ずからの人生を生きていく。
経営者にできることなど、その姿をそばで見守ることくらいだ。強制などできない。
自分の選択を他人が解消する
さて、新年会で話題になったことの一つ。幸せに働くとは何かを考えさせられる、象徴的な話だった。
「今は、離職するのにも、FAXが一枚届くだけです」
そう、常務が教えてくれた。本当に、そういう時代なのだなぁ、と思った。同時に、そういう仕事のしかたをする会社の価値、存在そのものの価値について、考えさせられた。
そして、そういう社員に早く辞めてもらえたこと自体もまた、その会社の価値なのかもしれない。そんな感覚を、静かに味わっていた。
退職を代行させる生き方。考えることをAIに代行させる生き方。似ていないだろうか。「代行させる」という意味では、よく似ている。けれど、退職の代行には、関係性の縁を切るという行為を、他者に委ねるという側面がある。それは、人間として大切な、「考えつくす」という行為を、ないがしろにしてしまうことではないだろうか。
自分が選び、就職した会社を辞めるという後始末を、自分で引き受けられないとしたら。それは、
自分というものを考える力の喪失ではないのだろうか。自分が生きた責任を、自分で引き受けないということだろうか。なんとももったいない。
幸せを感じながら働くとは、その関係性の中で、人生の喜怒哀楽を味わいつくすことではないだろうか。
偉そうなことを言える義理はない。会社員時代の私は、随分と自分勝手に振る舞い、同僚たちに迷惑をかけてきた。けれど、振り返れば、その一つひとつが、まわりへの感謝と、自分を育ててくれた出来事だった。
辞表
会社員を離職するときの辞表。
専門学校の講師を離職するときの辞表。
そして、雇用する側として、社員から受け取る辞表。
そこには、
言葉にできない真実が、たくさん隠れている。その時には感じられなかった言葉の裏側を、辞表を出してから数年後、あるいは数十年後に、ふと味わうこともある。
その組織に所属していたこと。よくは思い出せない、いろいろな出来事。それでも、懐かしいのは、関わってくれた人、仕事、知恵。そこへの感謝を、離職のときに直接伝えられないとしたら。
自分が選択したことへの後始末を、自分の言葉で、感謝に変えられないとしたら。
その喜びは、いったい、どこへ消えてしまうのだろう。
ああ、
なんとも、もったいない。

